山城むつみインタビュー

連続する問題 ドストエフスキー文学の衝撃を論じ、文芸評論の収穫として読者や各紙誌から評判を読んだ前著『ドストエフスキー』(2010年、講談社、第65回毎日出版文化賞受賞)から二年半。
同時期に雑誌連載された時評(「新潮」2002年~2008年)が、新たに書き下ろしの「補論」と「関連年表」を加えて『連続する問題』(幻戯書房)として一冊となりました。
中野重治や小林秀雄、ドストエフスキーなどの言葉を手がかりに、歴史的文脈から現在を読み解いていく『連続する問題』。その新刊について、著者である山城むつみさんに語っていただきました。

中野重治が注目した「連続する問題」

―― 連載時は、どのようにして執筆されていたのでしょうか?

山城むつみ(以下、山城) 同時期に断続的に連載していた『ドストエフスキー』(2010年、講談社)と違って、締め切り前に一気に書いていくことが多かったかもしれません。

―― 連載当初は統一的なテーマは特になかったようですが、2002年、社会的衝撃となった北朝鮮拉致問題をきっかけに、中野重治を支点として論じられていくようになりますね。とりわけ、中野が晩年にテーマとした日本と朝鮮半島をめぐる「連続する問題」という問題意識を大きくとりあげられ、本のタイトルにも採用されています。

山城 中野重治の「連続する問題」については、『転形期と思考』(1999年、講談社)でも考えてことです。ちょうど日本中が拉致問題一色になっていた時、もう一度中野の「連続する問題」に関する文章を読み返していると、現在の諸問題と「全部、繋がっているんじゃないか?」と思ったのです。それで、これを連載の軸にしようと考えました。

山城むつみインタビュー

「ここ」と「そこ」を切り返す視野

―― 『ドストエフスキー』ではラズノグラーシエ(異和)ですとか、第5章の『未成年』論での「切り返しショット」などをキーワードとして論じられていますが、『連続する問題』では、「ここ」と「そこ」という重要な概念が登場します。『ドストエフスキー』と今回の『連続する問題』は、ちょうど裏と表のような関係になっているのではないかと感じました。

山城 『未成年』はドストエフスキーの小説の中でも一番身近に感じる作品であるものの、どう論じていいのか、まったくわからなかったんです。当時、編集担当だった三枝さんと別件で映画の話をしているうち、J・L・ゴダールの「切り返しショット」の話になり、『未成年』を読むときに応用できるのではないかとひらめきました。
逆に『未成年』論(タイトル確認)を書いている時(2009年)は中野重治のことはまったく頭になかったのですが、『連続する問題』のゲラを読み返していて、「ああ、この時すでに同じことを考えていたんだな」と思いました。理論的に書けば『未成年』論になり、中野重治に即していえば日本から朝鮮半島を見る視野と、朝鮮半島から切り返して日本を見る中野の視野の話になるということですね。

山城むつみインタビュー

「過去」と「現在」を往復するように

―― 『ドストエフスキー』では、100年以上前に書かれた小説を対象にしています。その鋭い分析が、『連続する問題』において、“今、ここ”でこの本を手にしている自身に切り返してきた時、『ドストエフスキー』もまた、読者にとって違って見えてくるのではないでしょうか。

山城 ドストエフスキーは僕にとって非常に切実な問題ですが、過去に閉じこもってしまっていいのだろうか、という思いはあったんです。なので、定期的に同時代に触れることは必要かもしれない、と思いながら時評を書いていたような気もしますね。『ドストエフスキー』で書いたことが現在に対してどういう意味を持つのか、それが『連続する問題』でわかった気がしました。『ドストエフスキー』では二葉亭四迷のことから始め、大逆事件、ドストエフスキーに触れて、トルストイの家出と死で終わっています。これから、その1910年以降のことについて考える必要があるな、と思っています。

―― 『連続する問題』は連載時評で、一回読み切りのバラバラな文章を集めたものになっています。それが逆に、流動する現在を掴まえる同時代的の「ジャーナル」となっているように感じました。

山城 元々、『ドストエフスキー』では『悪霊』―『作家の日記』の時評文―『未成年』という作品を連続体として捉え、ジグザグに動き回りながら書きたいという構想があったのです。「ドストエフスキーの時評文はどうしてイデオロギッシュで平板なんだろうか」と言ったバフチンも晩年には、『作家の日記』を重要視していました。また僕がもう一つ大きな参照点にしている小林秀雄も、最晩年の対談でもう作品論はいい、やるとしたら『作家の日記』についてやりたい、と語っています。ただ、時評文を扱うと幅が広くなりすぎ、『ドストエフスキー』では対象を長編に絞りました。そのぶん、ジグザグな動きは『連続する問題』に出ているかもしれません。

「関連年表」から繋がる問題

―― 巻末に「関連年表」収録されていますが、この年表もドストエフスキー(の〜)から始まっています。

山城 『連続する問題』で主に扱った近代日本と『ドストエフスキー』で扱った19世紀のロシアが繋がってくるんだ、ということがゲラを読み返しながらわかったんです。たとえば、『ドストエフスキー』では扱いませんでしたが、トルストイとも関連する土地所有の問題についてはずっと考えてきました。まず日本の地租改正が1873年。その前年に土地の永代売買禁止が解除されています。売買禁止の解除、地租改正という流れで遡ると、新貨条例が1871年。造幣局ができたのも、ドストエフスキーの『悪霊』第一、二篇発表も同じ1871年、中野重治が集中的に論じたパリ・コミューンもこの年の3月から5月です。一方で、あれだけ土地所有を否定していたトルストイのサマーラ県での土地購入、それも同じ年。先ほどもお話したように、元々、『悪霊』―『作家の日記』―『未成年』という連続体について『ドストエフスキー』では書こうと思っていたので、1871年を起点にすれば両方の問題について書けるのではないか、と思ったのです。

―― 意外な事項が同じ年に並べられたりもしていますね。また、山城さんの公式サイトではロングバージョンの「関連年表」も公開されています。

山城 自分で読み返しても発見があるんですよ。中野重治の「連続する問題」は1904年の日露戦争辺りから続いていくので、関係のあるところを盛り込んでいくうちに年表ができあがった。できあがったら、相互に関連のあることについて書いてみようということで、「補論」を書きました。年表がなければ、「蘇州の空白から 小林秀雄の「戦後」」(新潮4月号)もああいう形にはならなかったでしょうね。

「読むこと」と「書くこと」の外側

―― 現時点の最新の論考である「補論」と「蘇州の空白から」、そして「関連年表」を併せて読むと、『ドストエフスキー』は勿論、「小林批評のクリティカル・ポイント」など、これまでの作品で扱われていた様々な問題とも合流してくるように感じられます。ここから、先ほどの「1910年問題」に進まれるということでしょうか。

山城 そうですね。小林秀雄について最初に僕が書いた「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992年)では、「読むこと」と「書くこと」についての内包的なことだけをとりあえず論じたんですが、小林の「読むこと」と「書くこと」が行われていた「外側」にあった文脈が、はっきりしてきた気がします。
 魯迅と二葉亭四迷や石川啄木は同じ頃に東京にいたのですが、そうした同時代性に全然気づかずこれまで魯迅や魯迅論を読んでいた気がします。他にも武田泰淳のことや、従軍慰安婦、原子力のこともロングバージョンの年表には入れています。実は、戦後の小林秀雄のことを考えていた際に一時、原爆を起点にしようかと思っていたことがありました。小林がベルグソン論の『感想』の書き始めた理由がそこにあるんじゃないかと。連載中断の理由はわからないけれど、あのほとんど祖述するような記述の原点を見ようと、小林が原爆、原子力についてどう考えていたのか整理していきました。湯川秀樹との対談では、小林は原子力について理論的に批判していて、一方で湯川は「太陽だって原子力ですよ」というような話をしています。『感想』の連載(「新潮」1958年5月号~1963年6月号)が始まった時は、いわゆる「アトムズ・フォー・ピース」ということで読売新聞などが原子力の平和利用キャンペーンをやり始めた時期で、きっと小林はその辺りのことを考えて、ベルグソンについて書き始めたんだろうな、と思います。

書き手と読み手が移動するようなスタイルで

―― 「補論」と「蘇州の空白から」を読んで最初に驚いたのが、明朝体とゴチック体を交互に並べられていく、という形式でした。

山城 本当は完全に溶かしこんで書きたいんですが、あの二つで扱っているのは「ここ」と「そこ」という概念なので、行ったり来たり、固定しないようにかなり不安定な書き方をしています。

―― 一方的な見方ではないというか、実は常に書き手が移動している、という運動神経が山城さんの文章にはあるのではないかという気がします。

山城 あの二つはかなり意図的に、自分が動かないと、思って書きました。それを同じ明朝体にすれば、読者は「なんでこんなに振り回すんだ?」と思うかもしれない。なら書体を分けて書いたほうが、「ああ、ゴチック体はさっきの話の続きか」とわかって親切かもしれない、と思って分けただけなんです。自分の力の問題もあるんでしょうが、やればやるほど断片化してしまうんです。

山城むつみインタビュー

断片的に書く

―― 書くというお話が出ましたが、ふだんの執筆ではどうされているのでしょうか?
山城 マックを使っています。iPadも使いますが、それで大量に書くということはないですね。自宅のマックで、Evernote上で断片的にワーッと打って、それを大学だとか外出先で読みなおし、また家に帰って直すんです。最初は手で書きます。新人賞を受賞した時はワープロばかりでしたがその後、必ず手で書くようになりました。これは辻原登さんに教えていただいた方法なんですが、色んなサイズの付箋だとかメモを用意して、端切れのようにして書くんです。それを蛇腹型のポケットホルダーに入れて持ち歩きながら、電車の中なんかで思いついたら、ぽんぽん放りこんでいく。それを、家に帰って、大きなスクラップブックにぺたぺたと貼り付ける。「あ、これは何か書けそうかな?」と感じるくらいまとまって来たら、「じゃあ書こう」とパソコンに向かう、という感じです。ふだんから断片的に書いているということですね(笑)。

批評は、引用が決め手

―― 大学の授業では、どのように講義されていらっしゃるのでしょうか。

山城 レポートや論文を書く時の、基本的な姿勢ですね。それは、どこを引用するかが決め手だ、ということです。あとは段落、パラグラフをちゃんと組み立てられるかどうか。基本的にはその二つだけなんですよ。引用を短く絞っていくうちに考えがまとまってくるんです。一方でパラグラフの組み立ては、文章をどう削るかということで、いろいろとゴチャゴチャ盛りこんだものを、惜しいなあと思いながらも自分で削ることができると、考えがクリアになりますね。

―― 引用の厳しさについては、作品での様々な引用からも感じます。

山城 小林秀雄の絶筆になる「正宗白鳥の作について」という文章があります。その冒頭に〈引用はすべて私が熟読し沈黙したものである事に留意されたい。批評は原文を熟読し沈黙するに極まる〉とあります。「批評の神様が言っているんだ、批評は引用で決まる!」と教えているんです。

1910年問題と夏目漱石『こころ』

―― それでは今後の構想について、何かお話できる範囲で結構ですので、うかがえますか。

山城 今は、夏目漱石を読んでいます。漱石個人というより、やはり1910年以降のことを考えているんですけれども。『こころ』(1914年)には、土地所有の問題だとか、「関連年表」にもあるような問題が結構含まれているんです。あの「先生」は、働いていない。親に財産があったことは書いてあるものの、どれくらいあったのか。今は研究が非常に進んでいて、当時の学生の生活費がどれくらいなのかもわかります。先生は利子でかなり豊かな生活をしていて、学生時代、それの半分も使いきれなかったとある。「K」も資産家ではないけれどお寺の息子です。明治の人たちは、何を本当は考え何をしたかったんだろう? それがどこでどう屈折したんだろう? そんな疑問を、土地所有の問題と絡めて考えられないかと思っているところです。漱石の個人史だけを考えれば、たった十年の活動で「前期」「後期」といわれるくらいトーンが違うのが不思議に思えますが、いわゆる「後期」に入る1910年以降の漱石の背景を考えないとダメなんじゃないか。たぶんそこには、土地財産ということに関して何かがあるのかな、という感じで、今、読んでいます。先ほどの「関連年表」との関係でいうと、面白いことに先生は柳田國男とほぼ同い年。「私」は折口信夫とほぼ同じ。叔父さんが先生を騙したんじゃないか、という時期は、民法が交付されて施行される頃にあたる。そうした背景を考慮すると、『こころ』という作品はもうちょっと違ったように読めるんじゃないか。
 それから、論証のしようはないかもしれませんが、二葉亭四迷ともやや関係があるかも知れないな、とも思っています。漱石は二葉亭と近所だから風呂で会話したりしているでしょう。そんなところから、漱石は二葉亭の『浮雲』(1887年~1889年)を意識していたのかな、と考えています。先ほどお話しした魯迅を読んでいるのも、二葉亭の周囲のことを知りたいからですね。武田泰淳も書いていますが、魯迅の周辺の秋瑾のような中国の革命家の一部は石川啄木とも接触があったはずですし。もうちょっと何か出てくるような気がしていて、そんなふうに1910年の前後のことをいま、あれこれと調べたりしています。

―― 『連続する問題』から連続する今後の山城さんの展開も楽しみにしております。今日はありがとうございました。

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